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「ラスト・サムライ」を見る前に時代劇について知っておいてほしいこと
切腹

切腹は日本武士のいわゆる象徴のようなものであるが、切腹する身分によって座敷上か 庭先かを選ぶ。

正式な作法は、座敷内に裏返した畳二枚を麻黄色木綿布で包み、西方か北方に置き切腹場とする。 座敷の場合は無地または逆さにした屏風を立て出入り口はすべて逆方向から出入りする。
庭先の場合は竹矢来を結い南北に出入り口をもうける。幔幕は白無地。

切腹人は麻製、麻黄色無紋の上下をつけ、 下には白無地着物。切腹刀は短刀の裸身を奉書で巻く。
TVなどで真っ白な着物に白い袴、白い肩衣をつけている様を見るが、 昔からあり得ないことである。
昔、日本に騎馬軍団はいない。

騎馬軍団と呼べるような軍団は存在しない。武田騎馬軍団とか義経騎馬軍団 というのは現代の人が描いた空想の兵団。日本陸軍の騎馬師団以外には騎馬軍団と呼べるものはなかった。

それは、馬の数が少なかったためか、鉄砲や火煙に未調教の昔の小型馬は狂奔するであろう。
馬は、行軍と 輸送用で戦闘には使えなかったのである。
侍に左利きはいない。

侍の大小刀は左腰帯に帯刀し、左利きであっても右腰帯に帯刀することは許されない。 侍は職業軍人であるから、集団行動の場合、左利きでは統制を乱して、危険を伴うので幼時に矯正してしまうのである。
したがって、刀は右手でぬくことになる。右手を切られた丹下左膳も左に刀を差して、左手で器用にぬくのである。

なお、戦陣では地面に伏すことも地上に座ることもあるので、太刀を肩から背中に斜めに差すことを許される。 この場合は左肩から右腰後方に斜めになるのが正しい。
忍者の刀のさしかた。

TVや映画では大抵右肩から左腰に斜めに背負っているが、この刀を右手でぬいて また、納刀するのは至難の業である。忍者は刀を斜めに背負うことはしない。狭い場所を通り抜けるのに 柄や鞘がひっかかる。転がったり、投げられて受け身をとるときに背負った刀はじゃまになるし、背骨を痛めてしまうこともある。

従って、刀は腰に差して、体の周りどこにでも移動させられるようにしたのである。
火縄銃は右肩に絶対担がない。

もし右肩に担げば発射に一番影響する火縄挟みが右の耳あたりに来る。火縄挟みが陣笠の先や 甲にふれて曲がったりゆがんだりしたら引き金を落としても発火しなくなってしまう。

敵が近くなれば、火縄に点火したままの行軍になるので右肩に担げば煙が目にしみるし火傷の危険もある。 さらに、急に現れた敵を狙撃するのに右に担いでいると左に回転させないと発射できないのである。
昔の日本の通行は現代と逆の左通行。

日本の道路は戦後、米軍の命令で右側通行と定められた。 なぜ、それまで左通行であったか。左腰帯に刀を差していたからである。

左側通行であれば、鞘がふれあうことはないが 右側通行ではすれ違うときにふれあう危険がある。刀は侍の魂であるから、ときには斬り合いになりかねないのである。
TVや映画にでる刀は堅牢無比。

TVや映画では十人や二十人斬ったくらいではびくともしないが、 本来、ちょっとでも堅いものを斬ったりすると、刀身が湾曲したり、そりが深く変形したりする。刃こぼれなども起こすと 刀身はおれやすくなる。こんな状態になった刀をすんなりと鞘に納めようとすれば、鞘を割ってしまう。

また、峰打ち、つまり刀身の背のほうで堅物をうつと刀身の刃の部分に亀裂が生じる。これが大きくなると おれてしまう。従って、素早くぬいて斬った後は慎重にさやに収める必要がある。また、峰打ちをする際、 先に180度回転させてから敵に向かう場面をよく見るが、これもまちがい。うつ直前に峰を返し、うった直後に 元に戻す。こうすると、打たれた方は斬られたと一瞬思うこともあるし、周囲の敵にも、斬られるという 危機感が残るからである。斬られないとわかれば全然怖くないでしょう。
乗馬下馬は今と違い右から乗り降りした。

現代のように、左側から乗馬下馬したのは西洋馬術を日本陸軍 が採用した明治時代から。なぜか。騎乗を許されていたのは指揮者と身分の高い人だけでこれらの武士が 戦時における馬上戦闘用の帯刀は陣太刀形式であった。陣太刀式とは左腰帯に刀を差すのではなく 帯取りという付属の金具を取り付け金具と帯ひもを刀鞘に取り付けた上で帯取りにとおした太刀紐を腰に巻き付け 太刀が水平になるように左腰につるす。

従って、柄頭は前方に水平にでる。ふつう、30センチほど前にでるのである。 この状態で、左から乗馬しようとすると、馬の肩等をつくので馬は驚いて左右に移動しとても乗れない。
したがって、右から乗ることになる。明治の日本陸軍は乗馬中は長剣を馬鞍の右に取り付け下げつるしていた。
後記

映画「ラスト・サムライ」の時代背景は武士の時代から近代日本へ移ろうとする時期の過渡期が背景。本当の侍精神が崩れようとする時代 を描いています。今回紹介した記事は、直接、映画とは関係ないかもしれませんが、忘れ去られようとしている日本の侍文化を知っておいてほしくて企画しました。取り上げた記事は河出書房新社からでている「時代劇を斬る」から抜粋させていただきました。

この本は大河ドラマやたくさんの映画TVで時代劇考証されている名和弓雄先生が書かれているものですが、 さすがに本物の侍の末裔の由緒ある家系の方だけに非常にしっかりした内容の本でここに取り上げた以外にも 勉強になる内容が盛りたくさんなので機会があれば是非お読みいただきたいと思います。
ただ、名和先生もおっしゃっておられますが、TVや映画はあくまでフィクションであり本来の 正確な時代考証をあえて曲げざるを得ないこともあるのは仕方ないとのことです。

しかし、正しいことを わからずに勉強もせず嘘の作り方をするのはあまりにも映像表現に対する侮辱であり、その点は 了解してほしいと思います。
▼河出書房「時代劇を斬る」2400円
▼ラストサムライ公式サイトへ
【緊急追記】12/11

ラスト・サムライが大ヒットしています。上記の特集にも時代劇の時代考証について取り上げましたが、特にこのラストサムライについての時代考証の記事がありましたので下記に追加してご紹介します。

  『この作品に対しては、「時代考証が間違っている」との声があがっています。実は、この批判は行き過ぎたものです。
多くの映画や小説において、歴史的事実の上に虚構の物語を組み上げる手法が使われており、『ラスト サムライ』でも、そうした手法が用いられています。
『プライベート・ライアン』は、物語自体は架空ですが、歴史的事実が至るところに反映されています。これと同じ手法が『ラスト サムライ』でも使われているのです。
それに批判の中には、誤解に基づくものもあります。少し長くなりますが、以下に解説してみます。

●史実を巧みに織り込んだストーリー
 物語は明治9年(1876)に始まります。
アメリカで南北戦争が終わったのは、この11年前の1865年です。オールグレンは第7騎兵隊に所属していましたが、指揮官のG・A・カスター将軍が、穏健なネイティブ・アメリカン達を虐殺するのに嫌気が指し、南北戦争後に軍を除隊したようです。その後、第7騎兵隊はカスター将軍の指揮の下、モンタナ州のリトル・ビッグホーンで全滅します。第7騎兵隊約260名が、約2500名のネイティブ・アメリカンに包囲され、カスター将軍を含めて全員が殺されたのです。生き残ったのは、馬一頭という凄まじさでした。

この戦いがあったのが1876年で、物語が始まる年でもあるのです。直前に除隊していたオールグレンは死を免れたものの、そのすぐ後に明治政府に雇われたという設定です。ここから、オールグレンとリトル・ビッグホーンの戦いを結びつける設定が創り出されたと考えられます。  

リトル・ビッグホーンの戦いは、アメリカ人には歴史の汚点として知られています。

『ワンス・アンド・フォーエバー』でも、メル・ギブソンが演じる主人公がこの戦いを繰り返し思い出すシーンがあります。日本人には馴染みのない歴史上の事件ですが、この戦いが残したものを理解しないことには、『ラスト サムライ』も理解できないでしょう。

現在、アメリカではカスター将軍は虐殺者だったという評価が定着しており、リトル・ビッグホーンは当然の結果だったとみなされています。劇中にはこの史実を使ったジョークがあります。

勝元がこの戦いでの騎兵隊とネイティブ・アメリカンの人数を尋ね、オールグレンが前述のような人数を教えると、勝元は「そのような死に方こそ武士の本懐である」と喜び、オールグレンに騎兵隊の指揮官の名前を尋ねます。オールグレンは「G・A・カスター将軍です」と答えるべきなのに、絶句して答えることができません。勝元は彼が答えない理由が分からず、「お前は会話が嫌いなのか?」と不満を漏らします。

これは実はジョークなのです。現在のアメリカ人も、外国の人に虐殺者であるカスター将軍の名前は答えにくいことです。それを単刀直入に尋ねられてオールグレンが困惑するところが面白いわけです。
しかし、ここで笑った観客はいませんでした。
これからご覧になる方は、ここでトム・クルーズの表情に注目して、ぜひとも笑ってください。  

史実では、オールグレンのようなアメリカ人の軍事顧問は一人たりとも存在しません。
日本は江戸時代後期に、すでに軍事顧問を招聘していました。徳川幕府は慶応3年(1867)に、西洋式の軍隊を作るためにシャノワンヌ参謀大尉、ブリュネ砲兵中尉らフランス人16名を招いています。

明治政府が陸軍を創設したのは明治4年(1871)ですが、物語の9年後、明治18年(1885)に、陸軍大学校の教官として、プロシア(現ドイツ)からメッケル少佐を招いています。オールグレンが雇われた1876年までには、すでにフランス人顧問が来てから9年も経っています。この頃までに日本では幕府が輸入したフランス式の軍制が定着しており、明治政府も陸軍を創立してからは、フランス式で兵隊を訓練していました。

つまり、明治9年にアメリカ式の方法で兵隊を訓練する必要はないことになります。幕末当時、世界を見回すと、軍事立国で有名なのはフランスでした。だから、徳川幕府は当時世界で最も優秀だったフランスの軍人を選んだのです。
その後、普仏戦争(1870〜1871)が起こり、プロシアがフランスを打ち破ったので、明治政府はフランスからプロシアに乗り換えました。

当時アメリカの軍隊は二流とみなされていました。アメリカが名実共に世界最強の軍隊を持つようになったのは、第二次世界大戦においてなのです。
だから、明治政府がアメリカの軍事顧問を招聘するわけはありません。明治時代にアメリカから招かれたのは、札幌農学校の初代教頭を務めたW.S.クラーク博士をはじめとする、軍事以外の分野の専門家たちでした。

 では、『ラスト サムライ』のストーリーはナンセンスかというと、そう即断はできません。ストーリーには史実が様々に反映されているのです。
ブリュネをはじめとするフランス人顧問の半数は、幕末の動乱において幕府軍と行動を共にし、各地を転戦しました。幕府軍が函館の五稜郭に追い詰められた時も随伴し、落城寸前まで戦いました。フランス国民は、帰国した顧問団を英雄として迎えたといいます。恐らくは、オールグレンの行動は、この史実を下敷きにしていると考えられます。また、勝元盛次は西郷隆盛がモデルなのですが、彼が西南戦争で落命したのは、物語の時期に合致する1877年です。大村という役名も、西郷の政敵でもあった大久保利通から取ったのかも知れません。

このように、日本人にとってこの作品は、史実をどのように脚色しているかを考える楽しみもあるのです。

●「武器」の変遷を利用した巧みな描写
 時代遅れの侍たちと近代的な陸軍を対照的に描く材料として、火器が効果的に用いられていることに気づいた人はいるでしょうか。その狙いは正鵠を突いているのですが、史実をかなり改変しているのも事実です。

誤解が起きるといけないので、ここで少し解説します。  

最初にオールグレン達が編成した陸軍は、旧式の先込め式の小銃を持っています。この銃で勝元軍に大敗したので、陸軍は次の戦いでは元込め式銃と大砲、さらにはガトリング銃を装備します。
この設定は、技術の移り変わりを通じて、時代の変化を表現するための脚色です。
特に、火砲がピカピカに磨かれているのは、近代的なイメージを強調することで、侍たちとの対比を狙っているのです。

その意図をはっきり知るために、銃器の仕様を比較してみます。

◆先込め式銃
銃身の先端から火薬、弾丸の順に装てんし、火縄又はフリントロック(火打石)によって火薬を発火させ、弾丸を打ち出す銃。
フリントロック式は火縄銃と違い、火を使わなくてすむので取り扱いが楽である。しかし、弾を装てんする度に銃を立てて作業を行うために、発射速度の点で難がある。
◆元込め式銃
先込め式銃の後に開発された銃。弾頭と火薬が一つにパックされた弾を、銃身の根元付近に装てんするので、操作が容易。薬莢自身に発火機能があり、弾を詰める部分に開口部がない。密閉の度合いが高いので、より強力な弾が撃てる。また、装てんの操作が簡単になったので、短時間でより多くの弾を撃てる。元込め式銃の出現により、先込め式銃は姿を消した。
◆ガトリング銃
6本の銃身を持ち、手動でハンドルを回すと弾倉に装てんされた弾丸が次々と銃身に送り込まれ、連続射撃ができる。弾が尽きるか、ハンドルの回転を止めるまで、射撃を続けることができる。

 劇中では、明治になってから輸入されたように描かれているこれらの銃器は、実際には幕末までにすべて輸入されている上、日本人は明治以前に大砲の技術も持ち、強力なアームストロング砲までも使いこなしていました。
ガトリング銃は戊辰戦争(1868〜1869)で、アームストロング砲は戊辰戦争の最中に行われた上野戦争などで使われています。このため、大砲は創立時から陸軍は装備していました。

ただし、最新の小銃は十分な数量がなく、明治政府の陸軍では最初は、元込め式銃が制式銃として使われていました。もっと正確にいうと、陸軍創立時は先込め式銃のエンピール銃が制式銃であり、明治7年に新しく元込め式銃のスナイドル銃やその他の小銃が採用されています。
エンピール銃はスナイドル銃に改造できたので、順次改造されていきました。

作品の舞台は明治9年頃ですから、ちょうど元込め式銃と先込め式銃が混在していた時期です。しかし、映画で描かれているエンピール銃しか持たない日本陸軍は、実際より少し古い時期のものといえます。  

だからといって、『ラスト サムライ』の製作方針が誤っているとは思えません。この時代、火砲の技術が急速に発展、進化したことは歴史的な事実なのです。それを一つの作品の中でまとめて表現することは、実は時代に取り残されている侍たちを描くための手法です。こうした事実を踏まえた上で、この作品を楽しむべきです。

●日本人も知らない史実の再現
 逆に、『ラスト サムライ』で、史実に合致する部分を探してみましょう。

写真家のサイモン・グレアムは、おそらく幕末に日本に滞在した写真家フェリックス・ベアトがモデルと思われます。
勝元が刀を持ち歩くことを大村が問題にしますが、この根拠となった法令である廃刀令は明治9年に発布されています。このため、不満を感じた熊本の武士たちが、神風連の乱を起こすなどの叛乱事件が起きました。
明治7年から明治10年にかけて、全国で武士の叛乱が相次ぎ、これは舞台設定の時期と一致しています。

また、神風連の乱を起こした面々は、武器は刀しか使いませんでした。
『ラスト サムライ』は、こうした史実を反映しているといえます。

 また、日本の時代劇と違うところは、すべて時代考証が誤っているともいえません。
日本の時代劇の考証にも史実と異なる部分が数多くあり、我々はそれに気づいていないことも多いのです。

たとえば、「(劇中に登場する)真ん丸い田んぼなんかあるはずない」という批判がありますが、実は丸い田んぼは平安時代にはすでに存在し、現在でも特定の地方には現存します。
「道端に仏像が設置されているのはおかしい」という批判もありますが、明治時代に撮られた写真に、そういう写真があるのです。
「横浜の景色が変だ」と思った人は、当時の横浜の写真を見れば、自らの誤りに気がつくでしょう。

こうした誤解は、「アメリカ人には日本が理解できるわけがない」という狭量な精神から生まれています。
130年近く前の日本には、私たちが知らないものが沢山あるのです。』

以上、私の映画リンク集にもある「シネトレ」にある記事でした。非常に勉強になると思うのでご紹介しました